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& 『市川浩先生の心の佇まい‐魂の再生‐』・・・・・・・・・・書家原田牧雄さんに聞く &
 1985年市川浩先生から、朝日カルチャーセンターで岡本章さんとともに学び30数年にわたり神奈川県立高校で教鞭をとられ、現在地域の人たちに書を教え、また日本社会臨床学の運営委員として活動されている原田牧雄(はらだ まきお)さんにとって先生の心の佇まいとは、どのようなものであったか、その糸口をお聞きしました。
(聞き手・構成:坪井 暢)



原田牧雄氏
 原田牧雄氏プロフィール:
東京学芸大学書道科卒業。神奈川県立高校の教諭として、書道、国語を30年余にわたって教鞭をとられ、現在は「蒼雲書道会」という書の研究会を主宰し、書の道を後進に伝えている。また日本社会臨床学会の運営委員として、学会誌『社会臨床雑誌』の編集委員長を担当している。
神奈川県三浦市在住。 



Q1: まず書家である原田さんが、書の世界を志した契機からお聞かせいただけますか?

原田: 私はいわゆる「書家」と言われるほど、書を専門的に追求している人間ではありません。公募展に出品したこともなく、書道の大きな団体や社中にも属していません。書の愛好家と言ったらいいでしょうか。11歳の頃だったと思います。あまりにも不器用で半紙に文字が収まらないので、近くの書道塾に通うようになったのが書を始めたきっかけです。高校に入学して書道部に入りましたが、そこで平井悟龍先生という素晴らしい師に出会いました。先生から、古典の書の正確な臨模によって、各自の書のイメージと技法を膨らませていくことを学びました。大学の書道科に入って、吉田鷹村先生や伊東参州先生に指導を受け、書の精神性や奥行きを学びました。




Q2: 東京学芸大学卒業後10数年を経て市川先生の朝日カルチャーセンターを受講されたとのことですが、きっかけは何だったのでしょうか?

原田: 大学卒業後、25歳から神奈川の県立高校に勤めましたが、初めは牧歌的だった学校がしだいに教育困難な学校になっていきました。授業は成り立たなくなり、授業中におしゃべりをするだけでなく、勝手に立ち歩いたり、トランプをしたり、中にはカップラーメンを食べている生徒もいました。あまりにも騒がしくて誰も授業を聴いていないので、「うるさいぞ」と注意すると、「うるせーのはおめーの方だ。勝手に授業でもやってろ」と言われたこともあります。生徒は教育されることそのものを拒否しているようにみえました。数十人の生徒が一斉に黒板に向って授業を受ける教育方法を、ベル=ランカスター方式と言いますが、こうした近代教育の基本的な図式が、多くの学校で崩れてしまっていたのだと思います。
現代の教育制度は近代の産物、様々な分野で近代の限界や終焉が語られているのだから、「教育」もそうした文脈の中で捉え直すべきだと考え、友人たちと「近代教育を問い直す会」という研究会を作りました。月1回レポーターを決めて議論しましたが、とにかく眼の前で起きていることを前提を外して捉えなおしてみようと考えて、議論を続けました。しかし自分の中の近代的自己の幻想が崩れてしまったためでしょうか、こうして前提を外して事態を相対化し続けるうちに、私自身かなり深刻な精神的不安状態に陥りました。自分自身のアイデンティティの問題、私が私であることを維持していることは当たり前のことではない、とても不思議なことのように思われました。そして自分自身が存在していることを了解できない精神分裂病という事態に強い興味を持ちました。当時ハイデガーの『存在と時間』を読みながら、ブランケンブルクやビンスワンガ―、木村敏の現存在分析を通して「存在了解不能」とはどういう事態なのかを考えました。その中でも特に、時間と空間の接点に自分を定位するとはどういうことかという問題を考えるうちに、ベルクソンの「純粋持続」をもう少しきちんとおさえておきたいと思い、朝日カルチャーセンターの市川浩先生の講座、「ベルクソンを読む」に参加しました。




Q3: 刺激的だったと思いますが、市川先生の講義の内容はどのようなものだったのでしょうか?ちなみに先生は、その頃1983年に「人類の知的遺産・ベルクソン」1984年に「<身>の構造」1985年に「現代芸術の地平」を出版されています。テキストも教えていただけますか?

原田:私が受講した朝日カルチャーセンターの市川先生の講義は、まず先生が書かれ、講談社から出ていた『人類の知的遺産』のベルクソンを使用し、『意識に直接与えられているものについての試論』、『物質と記憶』、『道徳と宗教の二源泉』の抜粋を毎回先生の解説でじっくりと読みました。先生は普段目にしていること、私たちの身体が感じている当たり前の風景を例に出されながら、言葉に沿うのと同時に物事にずっと沿いながら、ベルクソンの哲学を解き明かしてくださいました。その後先生の手書きのプリントを補助資料に、メルロ=ポンティの『眼と精神』やベイトソンの『精神と自然』を読みました。特に先生の勧めで講読したベイトソンはとても面白かったです。その孤立した物質同士の空しい法則を退け、「存在の大いなる連鎖」を充たしているものだけに目を向ける、生態学的コスモロジーは、ベルクソンとも通底するところがあり、捉えどころのない大きさや肯定感に魅了されました。




Q4:  先生はその頃「身体論」を踏まえ、多岐にわたり芸術分野に多様な発信をされていました。一緒に受講されていた方は、どのような方がいらっしゃいましたか?

原田:演劇の岡本章さん、美術家の高木修さん、精神科医の福原泰平さん、現代音楽の作曲家池田哲美さん、日本文学研究の近藤裕子さん、SF評論の志賀隆生さん、その他にも映画評論家をめざして勉強されていた岡稔人さん、カントを読んでおられた元公務員の野田吉之助さんなど、様々な分野の方、様々な生活経験をされてきた方が集まっていて、その多様で横断的な関係は、とても楽しく刺激的なものでした。当時受講中の福原泰平さんと先生が、「医学はサイエンスなのか」という『現代思想』の特集(86年9月号)で対談されたこともありましたが、これもこの講座を通じた交流から生まれたものだと思います。この対談は、いま読み返してみても示唆に富み、色々と考えさせられる内容の濃いものです。




Q5: 皆さんとの出会い、本当に楽しかった先生を囲んで喫茶店・飲み会での語らい、小登山・ハイキング等、エピソードをいくつかお願いできますか?

原田:講義が終わると、毎回喫茶店で先生を囲んでおしゃべりをしていました。同じ話題でも、様々な分野の方がいましたので、思いもかけない発想が飛び出すこともあり、どんな話になるか、とても楽しみでした。ハイキングもよく行きました。私は山梨の氷川渓谷、三浦半島の大楠山や荒崎シーサイドコースなどに参加しました。コースの最後に温泉があれば必ず立ち寄り、風呂上りに一杯やりながら語り合いました。ささやかな思い出ですが、岡本さんが、ハイキングに行く途中の電車の中で、皆さんの手相を見てくださったことがあります。先生の手相を見て、知的な活動だけでなく芸術的な感性も非常に豊かです、とおっしゃいましたが、その時の先生の手のひらが想像していたよりずっと大きく、ふっくらと豊かだったことが印象に残っています。ここに掲載した写真は、氷川渓谷に行った時のものだと思います。紅葉がとてもきれいだったことを思い出します。



氷川渓谷ハイキング







Q6: 演出家、俳優、劇作家の岡本章さんとは交流が今でも続いており錬肉工房の公演を毎回ご覧になっているそうですね。

原田:岡本章さんとは85年に市川先生のベルクソンの講座で知り合ってからずっと交流が続いています。岡本さんはご承知のように、「錬肉工房」という劇団を主宰されています。岡本さんご自身が出演されることもありますが、脚本も書かれ、演出は毎回担当されています。その舞台は鍛え上げられた身体の動きと発せられる言葉が、深いところで交錯する素晴らしいものです。毎回斬新な発想の組み換えがあり、新しい動きや仕掛けがあります。また様々な分野の人とのコラボレーションによって、舞台には予想もつかない展開と刺激が生まれます。最近何度か江戸糸あやつり人形が登場しましたが、「バッカイ」では人形が人間の深い感情を最も鮮烈に表現していて、本当に驚かされました。これも岡本さんの演出の力が引き出したものだと思います。その講演の後、こんな一節を含む感想を岡本さんに差し上げたことがあります。


今回初めて、江戸糸操り人形とのコラボレーションを拝見させていただきました。遠い記憶、硬質に仮構された世界…の中で、人形が一番生身の人間の動き、息づかい、感情を表現していることにまず驚きました。そしてその存在が、声や身体が作り出す空間のかなめとなり、さらにそこに深い奥行きや広がりを与えているように思いました。いつも感じることですが、自在な身体の動きとコロスの響き合いは、時空のかなたから現前してくるようで、その調和、影の美しさも見事なものだと思いました。この広がりある世界と生身の人形のミクロなリアリティが調和して、豊かな異次元の世界を作り出しているのかもしれません。


岡本さんが企画され、柏のアトリエで開かれたシンポジウムで、大野一雄さんの生死の間を往還する身体の所作を間近かで見せていただいたことも、とても貴重な体験でした。岡本さんが編集された著作『大野一雄・舞踏と生命』にも大きな刺激を受けました。この本に触発されて以下のような一節を含むお手紙を差し上げたこともあります。


現代社会の根底的な問題は、「時間」と「空間」の相互疎外だと考えたことがあった。

存在を存在たらしめている、今ここに生成しつつある時間・・・存在と時間の一体性。存在は時間であり、時間は存在であるような生成の根底としての時間。

しかし能の『井筒』や大野一雄の踊りには、そいう「生成」を支える時間=存在をさらに豊かに相対化するもう一つの時間=存在の層が出現する。現前する時間と過去の時間、死者の時間、生者の時間、死と再生の時間・・・多様な時間が自然に交錯したり入れ替わったりする。しかもそれが文学のような観念的なものではなく、一つの生きた人間の身体の在り様、その現前として表現される。西田幾多郎の言う「永遠の今」、「死を含む生として一瞬一瞬がそれ自身否定でありながら、常に新たなものが現れてくる『現在』の産出性」に直面できるのは本当に稀有な出来事かもしれない。


岡本さんから受けた刺激はここでは語りつくせませんが、どんな分野の人も自分の立っている前提を外して考えることで、それまでとは違う新鮮な世界を垣間見ることが可能だった80年代にお会いできたことは、本当に幸せなことだと思っています。





Q7: 先生は60歳代で病床につかれ71歳で亡くなられて今年で12年になります。 今となっていつも思うのですが、先生は20年、30年かもしれない。身体論の啓蒙を含め生きた時代があまりにも早すぎた気がして仕方ありません。
ただ私たちは、現代に生き、ここに生きているのです。
もし先生が生きておられたら文化、教育等、今のこの世の中をどう見ていたでしょうか?

原田:市川先生は、常にやわらかな感性で時代の最先端の問題を捉えようとされ、例えば「バーチャルリアリティ」について、とても印象深い講義をなさいました。その中で先生は、非現実の世界に対しても、自律的に反応しこれを捉える身体の可塑性、奥行きの深さについて語られましたが、もし先生が生きておられれば、例えば臓器そのものを作り直す「再生医療」の問題などにも興味を持ち、独特の身体論でこれを考察されていたかもしれません。「再生医療」は、未来志向の合目的性の下、相変わらず患者を客体化する機械的身体論が前提となっています。先生はこの問題を、ミクロコスモスとして微妙なバランスと奥行きを持つ身体観から批判的に捉え返されていたかもしれません。先生がこの問題を、身体図式の解体と捉えるのか、身体の新しい可能性として捉えるのか分かりませんが、解明への糸口は与えてくださったのではないでしょうか。勿論これは私の願望をこめた想像に過ぎませんが…。





Q8: 当時誰もが感じていた先生の心の佇まい、豊かさを再認識しつつ原田さんご自身先生から受けた想い、志、熱かったあの時代、先生が我々に投げかけられたメッセージは何だったのでしょうか?

原田: この質問は大変難しいので、私個人の感触だけお伝えしておきます。市川先生は例えばデリダが、フッサールの『論理学研究』の批判的な捉え返しから導き出した「差延」という概念を全く評価していませんでした。それはあまりにも人工的な仕掛けだと感じたからかもしれません。先生はどのような難解な現代美術の作品を前にしても、奇矯な論理を用いるような無理はされませんでした。誰もが共感できる感性で接近し、平易な言葉でその作品の本質に深く迫っていくと言ったらいいでしょうか…先生にはこのようにやわらかなバランス感覚のようなものがありました。先生は予定調和的な発想はされませんでしたが、ベイトソンのマトリックス(母体)やテイヤール・ド・シャルダンのコスモロジカルな思想にしばしば言及されました。またサルトルのように物事を暗くペシミスティックに捉えれば、深く思考することは比較的たやすい。でもベルクソンは明るく肯定的でしかも深い、そこがベルクソンのすごいところだ、とおっしゃっていました。先生の「人間は自己組織化することで、外に向かって開かれていく」という捉え方も、自閉的になりがちな我々の状況への警鐘だったのかもしれません。多くの人がうつ病になってしまう暗く先の見えない時代だからこそ、明るく肯定的で深く力強い生態学的コスモロジーの世界、その調和への予感が求められる…これが先生のメッセージの一つだったのではないでしょうか、私はそんな風に感じています。




Q9: 先生の著作で今でも手に取って読む著作を教えていただけますか?
朝日カルチャーセンター時代のテキストでも構いません。

原田: 『精神としての身体』『身の構造』は今でも時々読み返します。ご承知のように、先生の『精神としての身体』の原型となった論文は、1968年に書かれています。私は4年ほど前、『社会臨床雑誌』に「「脳」・「意識」・「自己」を考える―生命進化を射程に入れて―」という論文を書きました。その際に、この本を読み返しましたが、チャン・デュク・タオの「行動の諸形態」を批判的に捉え返す部分などに改めて触発されました。先生の本は、きちんと読み直せば、今でもたくさんのことを教えてくれるのではないでしょうか。




Q10: 原田さんは現在、社会臨床学の研究をされています。
社会臨床学についてお話しいただけますか?

原田: 「社会臨床学」という学問があるわけではありません。私が運営委員をしている「日本社会臨床学会」という学会は、養護学校の義務化や臨床心理士の資格化に反対した人たちが核となって1993年に作った学会です。精神医療、臨床心理から教育、福祉、労働まで非常に幅広い分野の人たちが集まっています。一般に医療や教育関係の学会では、医療や教育をどのように行うかを研究する、つまり主体はあくまでも「する側」ですが、この学会は、医療や教育を受ける側、つまり「される側」はどのように感じているのだろう、何を考えているのだろう、ということに注目し、そこから何を学びとれるかを考えることを基本姿勢の一つにしています。ですから精神医療や心理の専門職に就いている人でも、自分の専門性をカッコに入れて、まず眼の前の患者との関係を反省的に捉え返そうとする人が多いと思います。このように専門性や権威をラディカルに否定する傾向が強く、「する―される」という枠にも囚われませんので、精神障害の当事者で学会の会員になっている人もいます。
私自身は、この学会の姿勢に共感し、専門性を問われないことに甘えて、自分の興味のあることについて自由な立場から論文を書かせてもらっています。精神医療や教育、福祉の現場では経済的な効率や合理的な対応が求められ、特に医療の現場ではエビデンスが要求される現代、幅広い人間学的事象を専門性を超えた、いわば臨床のまなざしで捉え返そうとするこの学会には、沖縄大学学長の野本三吉さん、発達心理学の浜田寿美男さん、教育否定の評論家佐々木賢さん、共生教育を問う篠原睦治さん、臨床心理学をラディカルに批判する山下恒男さん、心の専門家はいらないと主張される小沢牧子さん、精神科医の石川憲彦さん、といった大家だけでなく,先の見えない医療、教育、福祉の現場で行き詰まり、苦しんでいる若い人も集まっています。私はここ4年ほど、この学会の学会誌『社会臨床雑誌』の編集を担当していますが、「障害」や「病気」について、既成の見方を覆す論文に大きな刺激を受けています。最近も医療社会学や芸術教育の人からとても面白い論考が寄せられましたが、自閉症児の行動を、市川先生の身体論を援用しながら解明した論文なども投稿され、興味深く読ませていただいています。




Q11: 原田さんはご自身で、「雑文集」「対話集」という立派な冊子を出されています。いつ頃出され、どのような内容で構成されていますか?

原田: 立派と言われるほどのものではありません。ただ折に触れて考えたことを書き留めておいただけです。先ほども話しましたように、80年代の初めころから学校が荒れ始め、授業が成り立たない、ガラスが割られる、消火器がまかれる、トイレのドアが壊される、教員が生徒に殴られる…といったことが日本中で起きるようになりました。当時こうしたいわば教育の崩壊現象を、イリイチやフーコーやアリエスの言説を参照しながら考え、文章化してみましたが、このように近代に誕生した教育や学校について考えるうちに、近代そのものをどう捉え、どう相対化するかという眼で、色々な事象を観るようになりました。そして「時間」や「身体」あるいは「自己」について、ハイデガーやメルロ=ポンティ、ベルクソンの思想を頼りに、自問自答する対話形式で考えました。80年代の初めから90年代の後半まで大体15年くらいの間に書いた雑文を、『「管理」が問いかけるもの』『自明性の澱み』『対話集―関係論を超えて』『雑文集―近代の諸相を問い直すための―』という四冊の冊子にまとめ、友人や関係者に読んでもらいました。初めの頃は、教育や学校に関する文章が多いのですが、後半は人権思想の抑圧性や全体主義の起源、さらにポストコロニアリズムや柄谷行人論など、自分の興味が広がるのに任せて、素人の気楽さで色々な問題について書いています。




冊子画像






Q12: いままでも、これからも原田さんが書に託す想いをお願いします。

原田: 私はそれほど専門的に書を追求してきた人間ではありませんが、それでもここまで50年以上、書に魅かれて少しずつですが書き続けてきました。私は以前からこれは自分が、書きつけて残したいという衝動、言葉が文字という痕跡になろうとする、その根底に働いている衝動に突き動かされているのではないか、と考えてきました。書はよく線の芸術だと言われます。高村光太郎も日本の平安時代の仮名の書を評して、線だけでこれだけの美しさを表現している芸術は世界でも他に例を見ない、と言っています。しかし私はかつて世田谷美術館に展示されたハムラビ王の法典を観たときの感動が忘れられません。そこにあったのは、線的時間性の美しさではなく、ある凝縮に向って時間を止めるような、人をじっと佇ませるような美しさでした。それは刻み込まれた痕跡の深さ、その永遠性に起因しているのかもしれません。それは言語が文字という記号となる、その根源から生まれる美しさと言ったらいいでしょうか…。書が展開する空間は、眼に見えない垂直の深さを孕む「触空間」で、文字という痕跡の深さはこの垂直の深さによって表現される、と私は考えています。抽象的になりますが、デリダ風に言えば、「書」とは無限の解読を要求する記号の反復可能性が、線的時間性を通して時空未分の触空間の中に再現前されるものと言ってもいいと思います。書を書く楽しさは、まさにこの触空間を創り出す楽しさだと思っています。一方、書は見ることと読むことの接点に成立する芸術でもあります。優れた詩は読む前に文字を眺めただけで美しいと感じることがありますが、これも書の美しさの一面ではないでしょうか。
大学を卒業した後、書道科を出た友人たちと7人で「ぐるっぺ无(ん)」というグループを作り、銀座の地球堂ギャラリーで7回ほど展覧会をやりました。伝統的な紙・墨・筆を離れ、金属や石膏その他様々な素材を使い、実験的な試みを続けました。しかしその後私を含めみんな古典に回帰する方向に転じ、篆刻(てんこく)や仮名書のプロで活躍している人もいます。私は友人への手紙に「状況のざわめきに翻弄されない確乎とした美意識を徹底すると、やはり古典の底知れない不変の美しさにいきつく…古典こそがラディカリズムの極致かも知れない」と書いたことがあります。平安朝の仮名の古筆などを観ても、現代人が足元にも及ばない高みに達しており、その新鮮さは何度観ても見飽きることはありません。書の愛好者として、古典の書を臨模しながら少しでもイメージを膨らませていけたら、と今は思っています。




Q13: 最後になりますが、現在原田さんは書を生徒さんにお教えられています。 先生から受信したものを、どのようにして生徒さんに発信・継承させていこうとお考えでしょうか?

原田: 先生は、ピアノ演奏の達人などを例に挙げて、身体は文化を内蔵しているとおっしゃっていました。書の達人にも同じことが言えると思います。私も、私が教えている人たちも単なる書の愛好家に過ぎませんが、身体は文化を内蔵していくものだ、書の技法も身体図式の中に刻み込まれていくものだということに、自覚的になってもいいのではないかと思っています。身体の奥行きや可塑性は、単なる反復練習だけで開けていくものではありません。それは様々なイメージや思考、時には忘却によって新たな展開につながることもあります。書が上達していくことも、先生の話されていた身体図式の組み換えと深く結びついています。そのことを言葉ではなく、身体と身体の響き合いによって伝えられていったら良いな、と思っています。








この断章は、1985年の秋、市川先生のベルクソンの講義を聴きながら考えたことをまとめたものです。ベルクソンの「純粋持続」に対して、時空の接点や「存在」をどう位置付けるかを考えていました。当時行われた市川ゼミの合宿でも、このテキストを使って討議をしていただきました。そういう意味でも、とても懐かしい文章です。


「痕跡」について

 市川浩先生がベルクソンの講義の中で、時計を指さしながら次のような話をされた。時計には秒針が止まらずにすーと動いていくものと、コチコチと一秒ごとに時を刻んでいくものがあるが、針が止まらずにすーと動いていく時計はなぜか気持ちが悪い。それに比べると一秒ごとに時を刻んでいく方が安心して見ていられると。これは時間というものが、本来は切れ目のない持続であるはずなのに、われわれはそれを何とか空間化したい、一秒ごとに同じ空間を区切っていく形としてそれを見る習慣があるからだと。
 たしかにそのように捉えることもできるかもしれない。けれども私はこの話を聴きながら、まったく別のことを考えていた。つまりすーと止まらずに動いていく秒針よりも、一秒ごとにコチコチと止まりながら動いていく秒針の方が安心して見ていられるのは、われわれが時を空間化したいからではなく、痕跡化したいからではないだろうか。よく時を刻むと言う。「刻」は刻(きざ)みつける、つまり痕跡化するという意味にとるべきではなかろうか。純粋持続といえども、それが時として感じられるのは、時間と空間の接点、つまり痕跡の働きによるのではないだろうか。この場合の「気持ちが悪い」あるいは「安心である」というのは、極めて自然な感覚、つまり本来的に不安定な存在であるわれわれにとって極めて素直な反応なのかもしれない。
 では痕跡とは何か? この場合の痕跡は時間なのか、空間なのか、結論から言えば痕跡は時間にも空間にも属さない、その接点そのものなのだ。この接点は空間とも言えるし時間とも言える、時空未分の状態と言ってもよいであろう。

 線は確かに具体的な形として表現しようとすれば、一つの細長い長方形としてしか表すことはできないかもしれない。けれどもその長方形を線であると、つまり二点間の距離を表すものと認識できるのは、それを痕跡として把握しているからである。

 ゼノンのパラドクスは、本来時空が未分状態で統合されているものを、無理やり時間論と空間論の争いにしてしまったところから生じている。すなわち時間論は、運動が空間上に痕跡を残さなければ、アキレスが亀を追い越したことを確認できないし、そもそも運動そのものを捉えることができない。また空間論も、もし運動が時間上に残す痕跡でなければ、その運動を長さとしてしか捉えられない。つまり時間は空間に、空間は時間に関わらなければ、このパラドクスは解消しえない。この両者を未分の状態で統合しているのが痕跡なのである。すなわちこのパラドクスは無限と有限を結びつけようとした背理でもなければ、現実態と可能態の矛盾でもない。時間と空間を痕跡という相のもとに統合するわれわれの能力の存在を証明するものなのだ。

 痕跡によってわれわれはしっくりとした現実を繋ぎとめている。痕跡こそが生ける現実との接触を保障している。そう、問題はこの接触なのだ。われわれが夜中にふっと眼を覚まし、暗闇の中で何時かなと時計を見るのは、時間を知りたいだけではない。現実と接触したい、おおげさに言えば自分を時空の接点に定位したいからではあるまいか。

 出来事が時間であり、時間が出来事であった時代は終わった。確かに現在は出来事と時間は無理やり分離され、抽出された時間が精密に数量化されて一人歩きをしている。われわれは時間を数量化した時計に合わせて出来事を組み立てているし、そういう意味では時計の時間に縛られているのだが、われわれがふっと我にかえったように時計を見るのは、残念ながら今では時計が唯一の時空の接点になってしまっているからではないだろうか。

 音楽のメロディを初めて聴く時の新鮮さも素晴らしいが、繰り返し聴くうちに次の音に対する期待感が強まるのも、音とわれわれの接点を深める痕跡の働きによるものと思われる。

 結局ベルクソンの純粋持続の直観的把握も意識そのものが時間的存在である以上、同時的共感といっても完全に時間の流れそのものを捕まえることはできない。ただここが微妙なところなのだが、「捕まえる」といっても時間の流れを完全に止めて、つまり空間のうちに対象を並置して把握することではないし、「記憶」といっても完全に空間化されたものや、いわゆる加算によって得られたものではない。一つの質的展開がふっと蘇えるように把握される記憶といったらいいか、時空が未分の状態での記憶と考えられないだろうか。痕跡が時間にも空間にも属さないものだとしたら、この「記憶」はまさに痕跡と考えられないだろうか。

 時間にも空間にも属さない「痕跡」は時空の接点であり、人間にしか把握できないものであろう。人間独自の先験的能力は、カントが言うように空間をその内容から区別して捉える能力、つまり等質空間によって事象を捉える能力というより、時間と空間を統合し、そこに自己の存在了解を成り立たせる能力ではなかろうか。現在のわれわれが抱える存在そのものの不安は、等質的空間化の行き過ぎによる質的空間の疎外ではなく、時空を分離してそれぞれを別次元の体系によって捉えようとする、時空の相互疎外に起因していると思われる。ミンコフスキーが現実との生命的接触の欠如と言うときの、この「接触」は「痕跡把握」として捉え返すことが可能かもしれない。

 痕跡という言葉は、ひっかき傷や書の線のようなものを連想させる。書の線が実際には二次元、三次元の空間上に展開するにもかかわらず、音楽の演奏にも似た一回性の時間的流動に裏打ちされているのは、まさに書が痕跡に支えられているからである。だから書の線は、痕跡の痕跡といってもいい。
 痕跡は持続し流動し生成するという側面は時間的であるが、一つの点や線のイメージを持っているところは空間的である。しかし痕跡の本質は瞬時に消えてしまうことにある。それは時間が消滅するためにしか存在しえないことにも似ているが、時空を統合するという積極的な働きによっておのれを消してしまう点は、全く痕跡独自の作用である。
(1985年11月)







■原田牧雄氏の書作品■



書作品1_1


甲骨文の書体を基本に、詩経の「文王」という詩を書きました。詩経と甲骨文は時代も近いせいでしょうか、内容と表現がなじみやすいと思いました。筆を躍動させながら線を構築し、甲骨文の面白い表情を出そうとしました。横4メートル×縦1.7メートル 四曲屏風にしたててあります。






書作品2_1


太く変化のある行草体で、陶淵明の詩を書きました。力強く一気に書こうと努力しました。墨の滲みやかすれにも注意を払ったつもりです。横2.7メートル×縦1.7メートル






書作品3_2


杜甫の詩を形の整った楷書で書きました。杜甫の詩は謹厳なだけに楷書がふさわしい気がします。余白に清々しさが出るよう努力しました。横2メートル×縦1.7メートル 二曲屏風です。






書作品4_1


源氏物語の冒頭の部分を半懐紙の料紙に書きました。優雅に流れるように書いたつもりです。ここでは一枚だけしかお見せできませんが、料紙を変えて全部で五枚の作品です。書風を少しずつ変えて書いてあります。






書作品5_1


百人一首の歌を半紙版の料紙に二首書きました。無駄な動きを抑えて簡潔な筆遣いを心掛けたつもりです。






書作品6_1


石膏を流し込んだ下地の上に着色し、現代詩の文字を解体し文字と引っ掻いた痕跡のあわいのような形象を細い鑿(のみ)で一気に刻み込みました。






書作品7_2


石膏を流し込んだ下地にカースプレーで着色し、中にアルミ板を貼り込んであります。アルミ板に墨象のような抽象的な形象を書きつけ、黄色で小さく現代詩を転写してあります。言葉のイメージと抽象的な形象が重なるようにしたつもりです。






書作品8_1


石膏とアクリル絵の具を混ぜたものを、パネルの上にぶつけるように、あるいはなすりつけるようにして創ったものです。埋め込まれた銅版にやはり全体のイメージを象徴するような現代詩が転写されています。