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& ●市川浩先生との想い出・・・一林繁さんエッセイ &

  & ●師友忘れるを得ず(市川浩先生追悼文)・・・一林繁さんエッセイ &


日本医事新報no.4163(2004年2月7日号)に掲載された金沢市在住医師一林繁(いちばやし しげる)さんによるMEDICAL ESSAYSからの抜粋です。




 市川 浩先生。哲学者。明治大学名誉教授。昭和6年、京都市に生まれる。御尊父は宗教(仏教)哲学者・市川白弦教授。終戦時、小学6年生。ことあるごとに、成長 期の栄養失調による同世代人の短命を咨嗟されていたことが印象に残る。
 昭和29年、京都大学文学部文学科卒。毎日新聞社記者となる。徳島県に赴任中、小松島─和歌山を結ぶフェリー船の遭難事故(いわゆる南海丸事件)の取材に従事。 この時の体験が、先生をして再び学問の世界へ転進させる。昭和39年、東京大学大学院人文科学研究科比較文学・比較文化終了。翌年、東邦大学教養課程で哲学を講ずる。
 この時、一年間、私は先生の講義を拝聴した。静かで清明な語り口に魅力を感ずるも、私の理解力がついていかなかった。内容はもちろんすっかり忘れてしまった。 哲学の私の点数は、今でもしっかり覚えている。67点。先生の閻魔帳を盗み見た不埒な学生であった。当時、私は18歳。雪深い北陸から(本当に雪が多かった。 現在の比ではない)東京に出てきたばかりの「おのぼりさん」に近い。上野公園で人さらいに声をかけられ、一心不乱に逃げた少年だった。
 「先生、人間とは何ですか。人間が生きる意味とは何ですか」。大胆にも、先生のご自宅まで押しかけて発した私の最初の質問である。父を早くなくし、熱心な浄 土真宗の門徒の家庭に育った少年としては、必死の質問であったのだろう。その時、先生は苦笑もされず、静かに受け止めてくださり、淡々と哲学を学ぼうと発意とな った南海丸事件のことを話された。あの時、人間の死体を無造作に扱う遺体収容現場を見て、疑問を抱いたのだと。
 爾来、自分の師はこの先生と勝手に決めた。教養課程(千葉)を修了し、専門課程(東京)に進んでも、よく先生のご自宅を訪ねた。お子様は二人。まだ幼 く、奥様には迷惑なことだったに違いない。学生の無遠慮は特権に近いぐらいに思っていたのだろうか。汗顔の至りだ。
 昭和50年、既成の概念を突き破る名著『精神としての身体』で山崎賞を受賞。一躍注目を浴びる。身体論の新分野を拓き、以降の身体論徒の基礎論文となる。昭和59年『身の構造』、ほか共著書多数。医学界、特に心身医学、精神医学分野 の研究者に強いインパクトを与えた。さらに、先生はフランス文学出身の特性を生かし、芸術批評、芸術論に深く切り込み、昭和60年、『現代芸術の地平』を上梓。 思索の幅を広げていく。
 先生の面白さ、先生の魅力の一つは、現場を大切にする視点を常に持たれていたことだ。多くの異種芸術家(ジャンルを問わず、後に知ったことだが、雅楽器奏者や古武道の達人とも交流されていた)に直接インタビューするなど、徹底した現場 主義を貫き、行動&思索する異色の哲学者として旺盛な仕事をされた。この間、明治大学に招かれ、活動の拠点を移されている。後年、明治・東邦両大学卒業生をジ ョイントさせた「ISOP」という勉強会を組織、指導されてもいる。先生としては、さまざまの分野に進んだ人間の思考、生態をみておきたかったのでは、と推察している。また、教え子を大切にする先生の心の温もりが感じられる活動である。
 ところで、私は昭和53年、6年間の一般外科の研修を終え、地元の大学内科への転科、再研修を決意した。帰郷直前、山の上ホテルのレストランに招かれた。 「君のような医者が、これからは必要になる」。周囲の大反対の中、先生の励ましは今でも心に深くしみわたっている。それから10年後、昭和63年、私の開院パーティーにかけつけて、心温まるスピーチをいただいた。
 平成元年、「忙しくて死ぬ閑がないよ」との言葉を残して、欧米歴訪に旅立たれた。しかし、好事魔多し、翌年、滞在中のスペインで脳出血の発作にみまわれ、スケジュールを中断して帰国。以来、長い闘病生活が始まる。何度かお見舞いにうかがうたびにQOLの低下をみ、胸が痛く辛い思いをした。平成6年からほぼベッドの生活となられた。以後3〜4年小康が続いた。
 平成14年の電話で「頭はしっかりしているが、熱が6ヶ月前より下がらない。時間があったらみにきてほしい」と奥様の話。旧盆の休診日を利用して、懐かしい佐倉市のご自宅に着く。主治医O先生のご好意により私が点滴した。先生の手を握 ると握り返された。「先生、人間の生きる意味とは、現世でほとけに出会うためではないですか」。答えは返ってこなかった。三日後の夕方、奥様より突然の逝去の報を受けた。発すべき言葉もなく、ただ受話器を握りしめるのみ。「主人はあなたの来るのを待っていたのよ。生前の主人を診察した最後のお医者さんが、あなたです」。悲しみと同時に、感無量。
 先生の病魔による研究の中断は惜しみてあまりある。失われた10年といってもよいものがある。享年、71歳。平成13年、明治大学の盟友・中村雄二郎教授により、市川身体論の核心に迫る『身体論集成』が岩波現代文庫から刊行された。


日本医事新報 no.4163(2004年2月7日号)
MEDICAL ESSAYS(59〜62)
一林 繁「師友忘れるを得ず」より抜粋