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& 『<わたし>の中で生きる-----ゆっくりとした時の流れに-----』 東京女子大学・現代教養学部准教授 近藤裕子さんに聞く。 &
 1983年から市川浩先生より、朝日カルチャーセンターで学び、その後10年以上公私にわたり親交を持たれ、身体論を踏まえ<わたし>とは何かを臨床文学研究で問い続けている近藤裕子(こんどう ひろこ)さんに、今日までの市川浩先生への内なる想いについてお聞きしました。
(聞き手・構成:坪井 暢)




 近藤裕子氏プロフィール:
 1953年東京都出身。東京学芸大学大学院連合学校教育学研究科博士課程修了。博士(教育学)。札幌大学法学部助教授を経て現在東京女子大学現代教養学部准教授。日本近代文学・臨床文学研究専攻。
 病理現象や身体性の衰弱といった自己が揺らぐ瞬間に照明を当てつつ、日本近現代文学において描出された「わたし」の特質解明を試みる。身体論や精神病理学、臨床心理学といった臨床諸学を援用した学際的研究を目指している。2015年4月より研究休暇で一年間京都に在住。私学研修員として京都大学に在籍しつつ、日本文化の底を探っている。



Q1:まず近藤さんが近・現代文学、臨床文学研究を志した契機からお聞かせください。

近藤:もともと心の底に渦巻くものに興味があったのですが、大学に進学する当時は心理学と言うと実験心理学や発達心理学が中心で「どうもこれではなさそうだ」と感じていました。それで近代文学研究の方に一歩足を進めたのです。その後、朝日カルチャーセンターで市川先生のご講義を受けましたら、折々に木村敏や河合隼雄の仕事のことを話してくださり、「これだ!」と。
 働きながら学べるところを探して山王教育研究所に辿りつきました。当時は臨床心理士の資格云々ということもなく、他分野の人間も懐深く受け入れてくれていました。それで、現在臨床の世界でご活躍の方々のご講義やワークショップをずいぶんたくさん受けることができました。特にワークショップを通して、思わぬ心の声を身体から聞くと言う体験をしました。市川先生流の言い方を許して頂けるなら、まさに「心としての身体/身体としての心」ということを、身をもって知ったということになりますね。
 私が学んだ二つの学問(日本近代文学と臨床心理学)をつないだ新しい研究は出来ないものかと手探りで始めたのが臨床文学研究です。




Q2:大学院修士課程修了後、数年経ってから市川先生の朝日カルチャーセンターを受講されたとのことですが、きっかけは何だったのでしょうか?

近藤:大学時代に出会った前田愛先生という方(近代文学専攻)が、当時、方法論として空間論・都市論を用いて近代文学に新たな地平を切り拓いていらしていたのです。それで、「ああいうカッコいい先端的な研究をするには、きっとまず都市論からなんだろうなあ」と漠然と考えていました。その後、1982年に明治大学が開いていたチェーン・レクチャー「空間と身体」を知るのですが、多分「これだ!」と思ったのでしょうね。今調べてみると、鈴木忠志(演劇論)、栗本慎一郎(都市論)、原広司(建築論的文学論)、市川浩(身体論的空間論)といった、時代の最先端に立つそうそうたる講師陣です。そこには、専門の異なる者たちが集まって超領域的に議論し思考を深めるという、80年代特有の清新な風が吹いていました。そのど真ん中にいらしたのが市川先生で、後を追うようにして朝日カルチャーセンターに通うことにしたのです。




Q3:市川先生の講義内容はどのようなものだったのでしょうか?テキストなども教えていただけますか?先生はその頃「身体論」を踏まえ、多岐にわたり芸術分野に多様な発信をされていました。当時一緒に受講されていた方は、どのような方がいましたか?

近藤:最初の一年間は、テーマティックな講義でした。「生と死」とか「自己と他者」とか、二項対立的タイトルが掲げられていました。でも、これにも実は仕掛けがあって、話し合ったり考えたりしてゆくうちに、概念や対立的な捉え方そのものにも疑いを抱いてゆくように市川先生は導いてくださっていたと思います。
 例えば、「脳死は死なのか」とか「意識を失っている自己は生きているのか」とか、「他人が運動しているのに自分まで力が入ってくるのはどうしてか」などといった具体的な問題をきっかけにして議論を始め、安易に結論を求めないことで、次第に抽象的な思考を深めていったという記憶があります。
 教室には様々な職業の方(書道家の原田牧雄さん・占星術師の安倍とみ子さん・ラカン派の精神科医福原泰平さん・劇団「錬肉工房」主宰者岡本章さん・SF雑誌編集者の志賀隆夫さんなど)がいらして、それぞれの立場から自由に(ほとんど好き勝手な)意見をおっしゃるのです。けれど、そういう異なった声の渦に身を置き、自分の中にそれらを批評的に取り込みながら、自らを編み直していったように思います。私自身も現在、研究会(「木村敏研究会」)を主宰しているのですが、折々、演劇人や人形創作家・画家・ダンス研究者・時代映画研究者など他領域の専門家をお招きしてお話を伺うようにしています。特に意識していませんでしたが、振り返ってみればそのルーツはここにあったわけですね。
 さて、そうして掘り起こされた皆の関心事を深めてゆくべく、その次の年からは先生のご著書である『精神としての身体』や『<身>の構造』や、先生の発想の原点となったベルクソン『物質と記憶』やメルロ=ポンティの『知覚の現象学』等を教材に、そのエッセンスを学びました。サルトル再評価を行った年もありました。そうそう、ベイトソンのダブルバインド論もその頃習いましたが、分裂病(現在の名前は統合失調症)に興味をもったのはそれが契機だったように思います。
 はじめのうち、文学畑の私に哲学の講義は理解できないことが多くて、講義の最中に頭が朦朧となったこともしばしばでした。けれど先生の講義の面白いところは、抽象論に終始せず必ず具体的な例をあげて理解の道筋を開いてくださったところです。そして、それこそが現象学的なアプローチだったのだと、今になるとよくわかります。




Q4:こちらにある当時のファイルを見ますと、講義内容メモをはじめ、参考文献コピー、受講された方の手書きレポートのコピー、血液型・趣味・ニックネームまで入った住所録など大変貴重な資料ですね。





近藤:そうですね。私はノート係を仰せつかっていたこともあって、理解できても出来なくても、とにかく先生が話していらっしゃることは出来るだけ正確に記録しようと思っていました。時々へたくそないたずら描いたりしたのですが、後でほめてくださったり(笑)。あれは、眠らずによく頑張っているね、という意味だったのでしょうね。優しく導かれるのがお上手な先生でした。その時ご褒美に頂いたハンカチーフ(エレガントな方は「絹ごし豆腐」、カジュアルな方は「木綿豆腐」とおっしゃっていました)は、今でも色あせずに抽斗に眠っています。
 先生は毎週レジュメも資料もご準備くださいましたが、私は多分そのほぼすべてを保存していると思います。こういうものも何かのお役に立てることができたら、と思います。
 受講者たちの自己紹介も毎回作って配布されていました。こういうことを先生がなさっていたのは、受講者たちの交流をはかり、それぞれの持っているリソースがぶつかり合いながら新しい何かが生まれるのを期待されていたからだったのではないかと思います。




Q5:先生の講義はもちろん、楽しかった先生を囲んで喫茶店・飲み会での語らい、ハイキング等、微笑ましいエピソードがありましたらいくつかお願いできますか?

近藤:朝日カルチャーセンターの担当者である蒲生真理子さんが、ある梅林を「桃源郷のように美しかった」と話されたのがきっかけで、みんなで観梅旅行に出かけたことがあります。ところが、時期が早すぎて蕾ばかりで…。けれど、今度はその咲いていない梅をネタに皆で大盛り上がりして満開に花を咲かせました。
 山登りに出かけたこともありました。いざ集合してみたら、なんとハイヒールの人あり、長い傘持参の人あり、大きなカセット・デッキをもちこんできた人ありで、とても登山の格好とは思えない。「市川ゼミはエキセントリックだなあ」と互いに相手を見ながら大笑いしました。それでもなんだかんだ皆で助け合いながら、そのままの服装と持ち物で登ってしまったように記憶しています。そういう実用離れした多様なあり方を、市川先生は「ある種の可能性」と見ておられたのではなかったでしょうか。面白がられることはあっても、非難や注意等は一切ありませんでした。
 そういえば、いつか「のっぺらぼうの渾沌君を哀れと思った人が、目鼻を描いてあげたら、渾沌君は死んでしまったんだよ」というお話をしてくださいました。われら目鼻の整わないカオス(渾沌君達)を、なるべくそのままにしながらも、それぞれが勝手に育ってゆくよう水を与え続けてくださったのが、先生だったのかもなあと思い出したりしています。




Q6:朝日カルチャーセンターは、何年在籍されたのでしょうか?その後受講されていた方々と継続を希望され、新宿文化センターにて月1回有志で勉強会を開催されたと伺っていますが、何人くらい参加されましたか?携帯電話、PCもない時代、幹事として連絡等は大変だったのではないでしょうか?

近藤:朝日カルチャーセンターへの在籍年数はもうはっきりとは思い出せません。でも、開かれていた期間すべてに参加していたかと思います。その終了回の時に、「今後は有志で勉強会を開こう」ということになって、私が幹事の様な役を仰せつかりました。連絡希望者は50人から60人くらいいらしたでしょうか。出席者は毎回その半分くらいだったように思いますが、定かではありません。幹事の仕事は主として会場を押さえることと皆さんへのご連絡でした。たくさんの方がお集まり下さって、毎回生き生きとしたディスカッションが展開されていたので、「大変だった」という思いは残っていないですね。
 終了後は飲み会もあり、高木修さんあたりがまとめ役をなさっていたのではなかったでしょうか。千葉からいらっしゃる先生は、その都度東京に宿をとって飲み会にも出られていたと聞いています。先生が一番大変だったはずですが、やはり会の活況が先生を動かしていたのでしょうね。





Q7:先生は、当時から論文作成にあたり引用・参考文献があれば、社会人、学生の言葉でも「補註」として出典を明記されたそうですね。

近藤:はい。朝日カルチャーセンターの授業中に、哲学素人の私たちがあれこれ勝手なことを発言するのですが、それに示唆を受けられたのでしょう。ご論文の注に、ちゃんと発言者の氏名(先にお名前を挙げた志賀さん)を記されていました。研究者の論文と同じ扱いをされたわけですから、参加者としても研究を志す者の一人としても、とても感動しました。忘れられないエピソードですし、私もそれ以来、論文執筆にあたっては同じ立場をとるよう努めています。





Q8:新宿文化センターの後だと思いますが、海外から先生より近藤さんへの手紙がいくつも残されています。その中に相当枚数のものもあります。現地の文化状況、これから先生が講義で目指すもの、論文に近いもの等見受けられます。当時この手紙を受け取りどんな感想でしたか?私は先生と近藤さんの心の交流の深さを感じます。病床につかれてからも先生にお便り出されたのでしょうか?





近藤:それはどうなのでしょう。私信というより、いつかご本にまとめることを意識して書き送っていらっしゃる「半公文書」のようなものなのだろうと、当時は理解していました。ですから、大切に整理保管するのが私の仕事なのだろうなあと。
 病床につかれてから、市川ゼミの名前でお花をお送りしたこともありました。静かな雰囲気がいいと、白と緑の花だけでブーケにしてもらったのを覚えています。
 後に私が『臨床文学論』という本を出版する際に奥様から伺ったのですが、先生が私の差し上げた葉書をパジャマのポケットに入れて、折々楽しそうに読んでくださっていたとのこと。ご闘病中にお見舞いに伺えばよかったのですが、お目にかかるのが辛くてゆけませんでした。




Q9:近藤さんが、ドイツに住まわれていたのはいつ頃でしょうか?当時近藤さんお手製のビーフシチューを先生が美味しいと召し上がったそうですね。

近藤:1986年から6年間くらいですね。当時別居結婚をしていたのですが、夫がドイツに住んでいたので私も夏休み毎にドイツに行っていました。ちょうどそのころ市川先生も声明のヨーロッパ講演に随行してドイツに来られるということで、脚をのばしてデュッセルドルフの我が家に二泊されました。窓辺で何か書いていらしたり、ご持参された林英哲の太鼓のCDをご一緒に聞いたりしたのを思い出します。
 私は料理本とにらめっこして丸一日かけてビーフシチューを初めて作ったのですが、それを市川先生がぺろりと召しあがって、お代りまで所望してくださったんです。けれど作った量が少なすぎたために、マッシュポテトばかりお出しすることになってしまいました。
 先生はヨーロッパに入る前にアメリカでアーミッシュの作った料理を食べてこられたとかで、シンプルだけど大変おいしかったと、マッシュポテトを大量にほおばりながら楽しそうに話していらっしゃいました。
 その後、フランスに行かれて、そちらでお倒れになったという知らせを受けました。当時パリに夫の友人がいたものですからすぐに病院に訪ねてもらったりもしました。




Q10:先生は60歳代で病床につかれ71歳で亡くなられて今年で13年になります。身体論の啓蒙を含め生きた時代があまりにも早すぎたのでしょうか?

近藤:私は先生のお仕事が早すぎたとは思っていないのです。時代をしっかりと牽引していらっしゃいましたから。けれども短すぎたことは確かです。なさりたかったことはずいぶんおありだったでしょう。ご講義を受けた比較的後の時期には、バーチャル・リアリティに関心をもっていらっしゃいました。バーチャルなものが現実にどんどん浸透してきて、私たちの身体感覚にも大きな影響を与え、リアリティというものの質を変えつつある。そういうことを話されていました。
 近年平田オリザがアンドロイドと人間が一緒に舞台に立つ芝居を上演していますが、有機的な身体をもった人間と持たないアンドロイドとの境界を見極めると言うより、それが交流する事で見えてくる人間の深層のようなものに、先生が生きていらしたらきっと興味をもたれたのではないでしょうか。




Q11:近藤さんの今日までの先生への内なる想いについてお話しいただけますか?

近藤:先生から私が受け継いだものはあまりにも多く、整理して言葉にかえようとすると大事なものがこぼれおちてしまうように感じます。既に先生の思想や発想、感じ方やお人柄(研究者としても教育者としても)は、私の身体に溶け込んでいるように思えますし、それを敢えて言葉に換えて身体から切り離してゆくことは本意ではありません。
 きっと先生と交流したすべての方が、それぞれのあり方で先生を身体化(血肉化)しておられると思うのですが、皆さんそれぞれがそのことを大事にしてゆかれればよいのではないでしょうか。




Q12:先生の著作で今でも手に取って読む著作を教えていただけますか?

近藤:先生の一連の著作は私の研究室の一番手に取りやすいところに並べてあります。特にというのでしたら、『精神としての身体』、『<身>の構造』、『身体論集成』は良く手に取りますね。
 一昨年は、『<身>の構造』を大学院の授業のテキストにもしました。「難しい」と音をあげる近代文学専攻の院生たちに、具体的な例をどんどん挙げながら説明している自分に驚きました。当時はよく理解できなかった先生の考えや感じ方がいつの間にか自分のものになっていることに、驚きもし感慨も覚えました。今、その時の学生さんが身体論に興味を持って先生の著作を読みふけっています。先生が撒かれた種が私の中で実って種を宿す、その種が次の世代の中でまた実を結んで新たな種を宿す、そういう連鎖が学問を発展させてゆくことは、先生の願いの一つではなかったでしょうか。ちなみにその学生さんは教員志望ですから、種はまた新たな実りを生むのではないでしょうか。




Q13:近藤さんは現在東京女子大学で、近・現代文学、臨床学的文学研究を研究指導分野とされています。少しそのお話を聞かせてください。

近藤:臨床というものを意識して教えているのは大学院の授業になります。先に申し上げたように一昨年、市川身体論の文献講読をいたしました。そこにつながるものとしては臨床哲学者の鷲田清一や木村敏、精神科医の中井久夫、臨床心理学者の河合隼雄らの仕事があるのですが、そうした方々の文献を精読しながら臨床の発想や方法を理解し、それを近代文学研究に援用するという試みを続けています。
 授業中に意識しているのは、理論に終始しないようにするということです。実際にその場で体温を感じたり匂いをかぎ取ったり声に出して言ってみたりしながら、その時自らの内にわいてきたものに耳を澄ませてゆきます。また、身体を動かす簡単なワークなどもしていますよ。
 最近、体育会系の、哲学等には無縁だったお嬢さんが私のゼミに入っていらしたのですが、身体論への反応がよく、私の発想をしばしば覆すような発見をして楽しませてくれています。身体論は、「論理」から始めるのではなく、「はじめに身体ありき」なんだと改めて感じています。




Q14:近藤さんは、彩流社から『臨床文学論 川端康成から吉本ばななまで』を出版されています。いつ頃出版され、どのような内容で構成されていますか?本文前に「本書を故市川浩先生に捧ぐ」とあります。本文中も先生の著作からの「補註」がいくつか見られます。





近藤:『臨床文学論』は私の博士論文を改稿したもので、2003年の出版になります。川端康成、尾崎翠、村上春樹、吉本ばなな、山本昌代といった方々の小説テキストを対象に、臨床的な視点から読み解いていったものです。語り手のちょっとしたしぐさや身体の向き、動かし方、あるいは意味にはあまり影響のない助詞や副詞の使い方、反復する表現などに注目して、そこから語り手の心の深層に切り込んで行きました。身体が語っているもの、意識的統合からはみ出す言葉から滲み出てくるものを掬いとりたいと思ったわけです。
 はじめから市川身体論を応用しようと考えていたわけではなかったのですが、書きながら、あるいは書き終えてから、私の身体の隅々にまで市川先生の発想がはりめぐらされていて、それでこの本が生まれたのだと気づきました。
 「市川先生に献呈させて頂こう」と、ためらいなく思いました。




Q15:これからも近藤さんが先生の身体論を踏まえ<わたし>とは何かを問い続ける、臨床学的文学研究に託す想いをお願いします。

近藤:『臨床文学論』は試みの研究で、自分でも手探りで固有の方法や文体を探りあてて いるような状態でした。その時にモデルになったものが病いです。
 文学研究で登場人物や語り手の分析をする時に、どうも論理的一貫性とか統合された自我のようなものを前提に考えているふしがそれまでの研究にはあったのですが、私にはそれが不満でした。まったき健康な心身なんていうものは概念でしかない、人はみな傾きやゆがみやもつれや絡まりと共にあるのではないか。だとしたら、むしろそうしたゆがみを拡大した「病いというもの」をモデルにした方が、人の心のリアリティに迫れるのではないか、そういう発想に立ったわけです。
 最近は病いをモデルにするというよりは、語り手が抑え込もうとしているものや気付かないようにしていることを探り当ててゆく方に興味を持っています。それは、「語り」を批評的に読むことで、場合によっては語られなかった潜在可能性をも探り当ててゆくことになるのだろうと考えています。
 それと、だんだん関心が個人を離れてきていて、もっと大きな無意識の流れや物語を生み出してゆく力動のようなものに向かいつつあるようにも感じています。最近「いきものがたり」というテーマで研究を続けているのですが、人間中心主義から離れて生きものの視点から世界を見直したい、という思いがふくらんできているように感じます。方法論としては、身体論だけではなく物語論やレトリック論等も取り込みながら、複合的に考察してゆくつもりです。




Q16:私たちは先生の「想い」と遺されたものを若い世代に少しでも伝えていく必要があるのでしょうか?

近藤:私自身は、具体的に誰かに何かを残してゆこうとは思っていないのです。先生もそうではなかったでしょうか。何かを残そうとすると「自分」の枠を次世代に押し付けることになります。せっかく混沌の豊かさを生きている人にいらぬ目鼻を付けるのはどんなものでしょう。先ほど種と実の話をいたしましたが、私の身体や言葉が発散しているものを受け取った別の身体が、いつのまにかそれを取り込みその人のやり方で好き勝手に育ててゆく、そんな感じでもしも残ってゆくものがあったらいいかなあ、と思います。




Q17:最後になりますが、今回このインタビューは京都で行っています。私も本日、京都大学構内・周辺そして先生ゆかりの妙心寺を散策しました。先生の原風景を少し見た気がしています。近藤さんが京都に来られて半年。先生と京都についてひとことお願いできますか?

近藤:私たち関東人は、京都と言うと伝統的な側面を意識しがちですけれど、京都には新しいもの革新的なことを求め、尊重し、それを推進してゆこうと言う気概があふれています。京都大学に初めて入った時、「自由は僕らの朝ごはん」という文字がぱっと眼に入ってきました。「ああ、先生はこういう空気の中で学ばれ、新しい哲学の道を切り拓いて来られたのだなあ。」と実感しました。これは余談ですが、先生がご自分の職業欄に「自由業」とお書きになっていたのを見たことがあります。もちろん執筆をたくさんなさっていたからなのですけれど、まさに「自由こそ先生の本業」だったと思いますね。




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 京都大学の前身である、旧制第三高等学校初代校長折田彦市のもと培われた「自由の学風」。
その一端が読み取れる現京都大学吉田南校舎内、学生のフリースペース前にあるメッセージボード。
(2015年12月現在工事中)