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& シリーズ「空白の旅」V &
「小松島その海」 杉田善彦




小松島港岸壁から  (イラストも筆者)



人は「自分というものの存在を実は意識している」ということを前提に話を進めてみたい。
無論人間関係のなかでは当たり前であるが、「自己の存在」は日常のふとしたことで顕在化すると思う。たとえば、指先にとげを刺した時とか、簡単な試験に悪い点を取ったり、出席した結婚式の自分の名札を見た時、などなどである。そんな時、刺したとげが抜けなかったら結構悩む、簡単な試験内容がなぜ間違えたか、そんなことありえなかったという悔しさを感じ、また仮に結婚式の受付で自分の名札が間違えていたら不快であり、はたと自分の存在感が湧いて出る、とかを考えてほしい。
もっとも自己の存在を根底から思い起こすことになるのは、人の死に居合わせたときである。余り頻回にはおこらないが職業として付き合わされた時はどうなるかが今回の旅の意図であり、またこの旅は「市川身体論」誕生の地で思想の原点を確認したいと思うのがもう一つの目的である。








平成22年5月23日 朝 雨天。阿波富田駅の向かいのビジネスホテルの窓から眉山を眺めている。徳島市の人ならばみな知っているさほど高くはない山、ゆったりとした地形は心地よいが今日は、新緑が雨と霧で白っぽい。
この山は、昭和30年代初頭でも同様に街を見下ろすようにそびえていたに違いない。
ホテルの部屋の窓から眼下に見える鉄路はバラストが鉄錆色、雨に打たれている。単線を時折2両の気動車が通過する。これも変わらない風景であろう。
さて朝食には今回も同行願った渥美君、そして「卵かけ和食定食」にこだわる事になった市川ゼミ永年事務局長兼で編集長の坪井君と私の3名で食すこととなった。渥美君は非常に丁寧几帳面なところがあり、事前の下調べや、旅の手配が細かい。一方、坪井事務局長も負けず劣らずに委細を正さないと気が済まない。だから今回の旅も非常に安心である。ややもすると旅の主題がぼやける、或は昼間の意識の中では旅の目的がつかみにくくなるが、諸兄の視点とこだわりに支えられ精神的介護をして頂き踏みはずさずに前進した。




さかのぼること1年前に、市川先生と親交の深かったT先生に面談した時の事である。
「身体論」の継承者に関してお聞きすると、今はかなり少なくなっているとの内容であった。とにかく哲学が学問として存続できるか否かなどという危機的現状であるとのお話で、ひどく滅入った覚えがある。この2時間近いお話のなかで哲学界の状況聞くにつけ、専門外のものとしては驚いたものである。私の学生時代の昭和40年代、自分は特別の思想に取りつかれてはいなかったが、しかし当時学生として目のあたりにしたこと、問題意識にしていたこと、やがて卒業後の生活の中で抱いていた「世界と自己のかかわり」に対する感覚とはかなり違ってきている。そんな現代の状況を何ともいえぬ寒々しい感じで聞き入った。たしかにその時代その時の経済情勢によって、人の思考や生き方は変わる。
戦後二十数年経った、昭和40年代はものごとを考えるのに、とくに自己存在を考えるのに「なにか本来的というか生理的にも」適切な時間が持てた気がする。
つまり文章をしつこく読み返すとか、活字の行間を読むとかして、世界と自分の存在を少しまとめて考えるとかができた。日常会話の中での相手とのやり取りも同じである。やり取りは一方的ではなく、ゆっくりと回数も今より多い、時間もかかるが通常それだけ相手の全体像がつかみやすく、自分の存在もより相手に認識してもらえた。
つまり今回は諸兄らとゆるりと会話しながら主題も探れた。
それが言いたく少々話がずれた。


徳島と和歌山を結ぶ連絡船に海難事故が起きた、昭和33年1月である当時の新聞はその悲惨さを伝える。今回その現場を52年後に訪れようというわけである。

紀阿連絡航路の南海汽船の旅客船「南海丸」は、1月26日17時30分頃に徳島小松島港を出航した。同日18時ごろに無線電話で危険を知らせる連絡を最期に消息を絶ったとある。当時、南海丸がいた紀伊水道付近は平均風速17〜20メートル、平均波高4〜5メートルの悪天候であった。翌々日の28日16時ごろに紀伊水道沼島の南西2.4海里の水深約40メートルに沈没している船体が発見された。その後船体は引き上げられたが、旅客139名乗組員28名の167人全員が死亡もしくは行方不明となる大惨事になった。

海難審判によれば、この遭難について、船体および機関に沈没原因になるような欠陥は無く、発生原因は不明。生存者がなく事故の詳細は明らかに出来なかったが、台風並みに発達した低気圧による荒海の中何らかの原因で沈没したのではないかといわれている。

さてここからが今回の「空白を埋めるキーワード」である。つまりこの海難事故の取材を契機に市川先生が新聞記者の職を辞して何故、哲学への道を選択していったかである。
旅に出る前、私は勝手にこういう仮説をたてた。
「職業として多数の人の死に接する、つまり新聞報道のための取材の現場に立った時、人間存在の何かを感じた。だがその場の感傷のみで自分の進路を変えたのではない。」
という仮説である。また生前に先生に当時の話をお聞きした際も淡々とした口調で語っていた。そうは言っても先生はいつも淡々とした語り口で、その事が少々は引っかかるのだが。ともかくそれでも若い人々の遺体が上がってくるのを見ていた場面の話になると何ともいえない曇った表情になったことが今でも思い出される。
たしかにご自分でもこの事件を契機に進路を変えたということは語っておられた。しかし何故哲学に進んだのであろうか、これは残念ながら聞き逃してしまっている。
それまでの先生の人生の経緯から推測すればなぜ哲学なのかは、今から顧みればある程度は納得できる。
つまり宗教家とくに禅僧に詳しい父方、そして理数科の母方。青年期に自己乖離的な体験、フランス文学専攻の大学時代の実存主義との接触、そして社会に出て迎えた自己疎外的な大量の死との出会い。これらが総じて生涯の羅針盤の針を変えたのだという筋道である。
しかしどうしてもこれだけでは何故哲学への進路をとったかは判然としない。
つまり当時の取材事件は結果的に契機となったのであって、前もって進路変更の種子が何処かにあったのではないかと云う仮説である。






その現場の徳島港へ向かおうと思う。雨は降り続け、徳島の空はやわらかいが墨色に重たい。
当時の連絡船、今はフェリーとなり今回の旅では我々は13時30分発の和歌山行きに乗船予定にしている。
朝食後、ホテルで会計を済ましてロビーに貼ってある地図を何の気なしに見ていると、渥美君、坪井君がフェリー乗り場と以前の港は違うらしいと言い出した。3名で地図を見入った、それでは困る。呼んでもらったタクシーに乗り込み運転手に聞いてみた。やはり昭和30年代は小松島のほうに連絡船の発着所があった。かなり現在の発着所からは遠いが車であればそちらも大丈夫、昼までには回れると云うことである。








そこで、まず予定どおり毎日新聞徳島支局が近いのでそこに車を向けてもらった。徳島市のほぼ中心で官庁などの区域、両国本町の大通りに面したビルである。訪れた当日は日曜日とあって三階フロアーのみ明りがあっただけで、静かな町並みに溶け込んでいる。こちらも渥美君が前もって当時の様子を残す資料がないか支局に聞いてくれていたが、あいにく整理してしまい海難事故の資料は現在ないとのことである。
それではと次に旧桟橋のある港、小松島へ回った。徳島市からは30分足らず。以前はずいぶんと活気があったと見える港街に入った。シャツターの下りたままの商店、空屋が目立つ広い通りを抜け、当時は国鉄の引き込み線が桟橋付近まで来ていたというところで降りた。
運転手の男性は南国特有ののどかで、どこか物腰緩やかな人物である。我々一行を最初は不思議な連中と距離を置いて、それでも地元の観光案内などをしてくれた。
しかし港に近づくにつれ何かの取材であろうと気付き、それからは際立って協力的になった。海難事故の記念碑は港の公園に有るはずであるとか、何やかやと当時の様子をすこしでも再現しようと近辺を案内してくれた。挙句に観光協会に携帯電話をかけて当時の模様を探ってくれた。このお陰でかなり根気よく付近を見て回れた。ただ五十年以上の歳月が人々の記憶を消し去ってしまったのか、慰霊碑ひとつ見つけることができなかったのは残念であった。








肌理の荒いコンクリートの桟橋はさほど長くはない、おおよそ3,4百メートル程であろうか、空の鈍さを映してどんよりしている。港の海水は錫色で波はなく細かいひだ状のうねりが一面にある。沖へ向かって広く開けた視界は、はるか先では空と海とが雨雲でかすんでしまい見わけがつかない。
この岸壁から半世紀前の1月、寒風の海に飲み込まれた南海丸が出港し、そして遺体と遺族がここで再会していたのであろう。引き上げ時の写真は波が荒く事故処理は時間がかかっていたと当時の様子が市川先生の取材メモにある。

さて、主題に帰ろうと思う。
はたしてここで人生の進路が変わったのであろうか。
私のたてた勝手な仮説はその場で崩れそうにも思えた。「感度の高いフィルムならば少しばかり多めの光でも全体が白く飛んでしまうのと同様、感度の高い人によっては瞬間の出来事が深く突き刺さり大きく何かを変えるのではないか」と感じた。
当時の海難事故写真を重ね合わせてみる。今私の目前にあるこの錫色の海は半世紀前、市川先生の目前にもたぶん同じように対峙し身体と空間を作っていたに違いない。
冷たい海から引き揚げられる犠牲者の多さ、そしてそれらを取り巻くどうしようもない矛盾を抱えた昭和30年代。日本高度成長のまさに前夜の惨事、社会の歪みとの間で自己の存在は大きく揺れたかもしれない。
もしかすると、この瞬間そのものが先生の進路を変えたのではないか。
私は雨水の滲みこんだ上着と靴で、しばらく海を前に息を殺した。そのまま濃い瞬間が沈黙している。何故、市川先生は敏腕記者でもなく、宗教家でもなく、小説家でもなく、哲学に進んだのか。本当にその場の感性がひどく感光し記者を辞めるのだろうか。いちいち事件の取材で生活を簡単には変えないのが新聞記者であろう。
深い谷間へ落ち込んでしまった。どうにも動きが取れず港にいた。


この海難事故の事件後、東京大学大学院へ進み、市川身体論は完成を目指す事となる。
先生の思想活動は当時の学会や思想界の潮流に乗り、また流れや隙間をぬって進んだのではなく、種々思考の末、考えの帰着が「身体を多面的に見る哲学」にたどり着いたのではないだろうかと思える。
現代身体論の創始者市川浩は「自分の持って生まれた何か」が哲学に向かせたのではないかといわざるを得ないが謎解きをする気はさらさらないので、これ以上思索は避けたい。

学生時代より身近にいたものとしては昭和50年「身体としての精神」の出版直後、先生のお宅にOBが集まり、話を聞き、合評会をした。我々が評するなど誠に失礼な話であるが、先生は確かに「合評会」と案内を出された。その席で初めて正式な身体論の講義を受けた。それまではゼミを通じて他人の著書を皆で読み、感想を聞き、また内容の討論をしていたので市川先生からは身体論の「身」の字一つ聞いてはいなかったので慌てた。
無論私の知識が浅く当時の思想の趨勢を知らなかったのが大きな問題ではあるが。
この時説明を聞き、やはり密度の高い時を重ねて用意された思想であると思った。
余談になるが、この本が出る数年以上前にゼミで「人は多面的な存在、神は総ての定義を拒否する」と、先生は言われた。「それでは神とは分かりませんね」と私は答えたところ「そうだね。」ということであった。先生のこの言葉は今でも覚えている。私にはこの自己存在の定義は強烈であり、その後もこれを超える規定を考えだせないでいる。

周り道をしている。しかしもう一息のところまで来たかもしれない。
学説を引きまわしただけでは理解しにくい現代身体論だが 語るは「神と人」、「都市と人」、「芸術」「精神病理」であり範囲は「生きることそのもの」である。
「身体の存在を意識し、自己を認識した」その時点、まさにその瞬間の高輝度な感光こそが身体論の発想とか着想を定着反応させたのではないか。

「いつ、いかに、何処で、心象に定着したか」を分けいり、思考を再編しようと私は「五十数年前当時に帰り そこから市川身体論は何なのか」をじっと考えた。
こうして落ち込んだ深みを抜けだそうとしてみた。
しかし南海丸の事故現場は、五十年前は何だったか、自分にとって疑問は何だったのかを神が定義を拒否したと同様に拒絶し突き返して来た。
「瞬間とは何だったか」疑問は残ったままである。この徳島の旅は思想の生まれた瞬間を見つけたいばかりの片道旅であった。
ところがあいにく、やはりその場では答えは出ないで終わろうとしているかに見えた。


市川身体論は学説的にはメルロポンティから構造主義に至るまでの視点をより日常性を持ち、なおかつ独自の展開で進化させたと云われている。この身体論を身近にするにはひたすら著書を熟読し、時間をかけ生きるのが必要なのだろうか。
思想する際、自分が「正座し、正面を向き、何を主眼に置くか」を意識の底辺に持つ必要は言うまでもない。しかし今の私にとって今後身体を考え続けるにはまさに心身一如である。まずは「どちらが正面なのか定める事」が不可避である。
正面を定めることは、疑問を定めること自分の位置感の定着であり、それは課題の選定と云うか、「日常の問題や気になる事」を整理し絞り込む事、という方向は見えてきた。

小松島の港と海の出会いは、絞り込むという事の重大さ、たったそれだけ、ただそれだけを気付かせてくれたのかもしれない。














13時30分発の大型フェリーに乗り込んだ。南海丸とある、広くて快適である。
しかし悪天候、海は少々荒れて船は揺れた。五十年前と重ね合わせて水滴の窓から重い海を眺め、機関の低い響きと波の振動、そして時を味わえた。
二時間ほどで和歌山港に着いた。関西空港を目指し、帰りの南海電車の特急サザン号の中、ご同行頂いた諸兄と気晴らしに道中閑話、「身体論研究」の会でも作れば面白いかなと小生がつぶやいた。反応は少しあるような、ないような。
乗客の少ないがらんとした清潔な車中、「空白の旅」論議は無論尽きる事なく、また次回の行き先を一同思案した。

2010年9月18日 記